デジタル・ヘリテージ
ワールド・ヘリテージ(world heritage)は世界遺産と訳されますから、デジタル・ヘリテージはさしずめデジタル遺産です。
ユネスコによれば、遺産とは過去からの遺産、今日の私たちが生きているもの、そして未来の世代に受け継ぐものとされています。価値があるがゆえに、世代から世代へと受け継がれるもの、受け継がれるべきものということでしょう。
ご存じのように日々、というよりも一瞬一瞬の間に膨大なデジタル情報が生み出されています。多くの場合、いちどデジタル情報としてインターネットで公開された情報は複製され、蓄積され、またコピーされて、永久に残ってしまうよう感じるかも知れません。
けれども例えば何年か前に見たwebサイトの情報はサイトが更新されると直接は見えなくなってしまいます(アーカイブされていているものに限って、時を経てからも見ることはできますが)。
文化遺産というものの理解は広まっているはずです。グループや個人にとって、文化的に、あるいは歴史的、考古学的、民俗学的、美的にといった価値を持つもののことで、有形のこともあれば無形のこともあります。一方、自然遺産は地理的、物理的、生物学的、地質学的に価値があり保全すべき風景、植物や動物の生息地などの領域のことです。
デジタル情報であっても、文化的、教育的、科学的、技術的、その他の価値のある人類の知識や表現であって、もともとアナログで作られたもの(古文書とか古い絵画とか書籍のテキストなど)をデジタル化したものや、デジタルとして最初から作られたもので、一過性の価値しかないものと、永続的な価値を留めそうなものがあるはずです。
意識して残そうとしない限り、創作者の意図を反映した形で残るとは限りません。デジタル資料はテキスト、静止画、動画、データベース、オーディオ、ソフトウェア、Webサイトなどさまざまな形式があります。例えばですが、古いOS上の古いアプリケーションで作られた古いデータ形式の情報は残るでしょうか。データそのものは残るかも知れませんが、例えば、個人の暮らしでも、MDに残った音楽を聴いたり、昔のワープロで作った文書を、そのワープロ以外のハードウェアで読んだりするのは難しいと思います。レコードだって、プレイヤーがなければ聴くことができません。
一方で、デジタル資料は自然遺産や文化遺産と違って、場所の制約がありません。バガン遺跡を見るためにはミャンマーに行かなければならないし、屋久島を見るには日本に来てもらわなければなりません。
デジタル技術は多くの人々に共有されますし、人々のコラボレーションも生み出します。
遺跡の中に大勢の観光客が訪れれば、汚れてしまったり傷ついてしまうこともあります。紫外線に当たって色が変わったり、心無い人が落書きをしたり、紛争で破壊されてしまうこともあります。そうした実在する遺産もデジタル情報として残そうという試みが各国で行われています。
一方で、インターネットが地球に暮らす全ての人々にとって平等に使えるものではない以上、多くの人々を置き去りにしてしまっています。
また、何を残し、何を捨てるのかを、例えば偏った考えを持った人々に委ねてしまうことにも危うさがありますね。
<参考情報>